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2011/10/31.Mon

平成23年-春-(7)

 …前(下)の記事~ 平成23年-春-(6) ~の続きです。

 俺と母親の全介助で父親、母親、俺の順になんとか昼食をとった。

 俺が自分の昼食時にラジオを聴いていたら、東日本の地震や津波の被害について伝えられた後、この地域の停電に関する情報が流れた。

 電気の復旧した範囲は市の中心部から郊外へ徐々に広がっているようだが、まだ我が家とその周辺は停電が終わっていなかったし、ラジオの情報からすると、父親のショートステイ先(の介護施設)とその周辺も復旧しておらず、どちらも、もう数時間は停電が続きそうだ…

 父親は、昼食後の少しの間は満腹感からかおちついていたが、その後はまた不穏になってきた。
 もう、俺も母親も家で父親の介護を続けるのは限界にきてしまった。

 今朝のショートステイ先から送迎車が家に来た際、俺は、停電が終わってから俺が送ることを送迎スタッフさんに言っていた。
 今もまだ停電は続いていて、ショートステイ先には嘘をつくことになってしまうが、もう無理だ…

 俺は最後の力を振り絞って、父親を自家用車でショートステイ先に送った。

 家からショートステイの施設に行く途中の信号は全部、停電で消えていたが、場所や時間帯のせいか交通量は少なかった。

 俺は、眠気と疲れに耐えながら、運転と助手席に座っている父親の見守りに集中した、というかそれ以外できなかったが、道路に面した店舗の多くが閉まっていることは、なんとなくわかった。

 ショートステイ先の介護施設の出入口には、乾電池、ろうそく、(電気を使わない)石油ストーブなどを緊急に寄付してほしい、貸してほしいという内容の貼り紙があった。
 施設の中は、停電が続いているために照明と暖房が使えないからだろう、日が射さないところは薄暗くて寒い。

 施設の玄関にやってきたショートステイのスタッフさんは、大変な状況での介護・仕事で疲れているようだったが、それでも笑顔で俺の父親を迎えてくれた。
 俺は、停電が終わらないうちに送ってきたことを謝り、父親のことを頼んだ。


 俺が帰宅すると、母親の疲れは限界を超えてしまったのだろう、居間で倒れるように床につき、すぐに眠った。

 俺も、すぐに昼寝した。他に何もできる状態ではなかった。


 暗くなってきた頃、俺も母親も、寒さで目が覚めた。
 疲れた身体をひきずり、なんとか可能な限り日常を取り戻そうと動き始めた時、テレビや冷蔵庫の動作音がした。

 ようやく停電が終わったことに気づいた俺は、「電気がきた!」、「停電が終わった!」などと思わず大きな声を出してしまった。


 テレビを見られるようになったので、つけて地域ニュースを見たら、電気の復旧状況についても伝えられていて、俺の家周辺や父親がいるショートステイ先周辺が復旧したことも言っていた。

 ショートステイ先の父親は、電気が復旧したばかりだから、すぐに停電前と同じような(介護)状況になることは無理だろうが、それでも、停電中よりはずっと良くなるはずだ。
 夕食から、飲みこみに配慮されたいつもの食事をとることもできるだろう。
 俺も母親もそのように考え、そして、ほっとした。

 地域ニュースを見たといっても、ニュースしか放送されておらず、全国ニュースで原発事故のこと、地震や津波で大きな被害が出た地域のことなどを見て驚いた後のことだ。


 水道とガスも停電が続く間に供給機能が低下し、止まってしまうところだったようだが何とか持ちこたえ、そして電気が使えるようになった。
 不便さが解消され、普段の暖房で家の中が暖かくなったことが大きいと思うが、俺も母親も少し疲れがとれたような気がした。

 固定電話も携帯電話も使えるようになってから少し経ち、母親が弟に電話したら、弟の家のほうが、我が家より少し早く停電が終わっていたそうだ。

 なんとか、父親がショートステイに行っている時のいつものように夕食や入浴を済ませ、昼寝し始めた時よりはましな状態で、床についた。

平成23年-春
2011/10/29.Sat

平成23年-春-(6)

 午前中に精神病院を受診し、午後に大地震があった翌日から、父親は4泊5日のショートステイが予定されていた。

 日付が変わる頃からラジオが、我が家のある市の停電について、「朝から本格的な復旧作業に入る」と伝えるようになっていた。

 朝になって明るくなると、その作業状況や、中心市街地の一部は(狭い範囲だが)もう復旧しており、徐々に復旧範囲が広がっていくという情報もラジオから聞こえてきたので、今日の昼頃には、郊外にある我が家もショートステイ先も停電は終わるだろう、と俺は思った。

 俺は5:30頃、DKから隣の居間に行って石油ストーブを点けた後、明らかに疲れていてつらそうな母親を、申し訳ないと思いながらも、父親を起こす前の準備を母親にも始めてもらわなければいけない時刻なので、起した。

 6:30頃に父親を起したが、こんな時に限って尿だけでなく便も失禁していた。
 少しだが暖かいのは居間とDKだけなので、DKで対応するしかないのだが、便臭を外に出すための換気扇が停電で使えず、しっかり窓を開けて換気すれば寒くて、父親が怒るのは目に見えていた。

 いつもなら朝晩のオムツ交換の際には、父親を怒らせないためと父親のお尻まわりの皮膚の問題で、電気で少しあたたかくなる装置に入れたおしりふきを使っているのだが、停電の今朝は(昨夜もそうだったが)冷たいままだ。

 俺は母親と相談しながら、窓開けは最小限にして、トイレからDKに消臭剤を持ってきたり、石油ストーブをDKに移動させたりして、なんとか父親のオムツ交換と着替えをしたが、やはり父親の抵抗とうなりは強かった。

 俺は、早朝から胃が痛くて、それがおさまってきたと思ったら、睡眠不足のせいか、疲れがひどいのか、余震が何度も起きているからか、身体が常に揺れているような感じになってきた。


 こんな状況の中で9:30頃、ショートステイの送迎車がいつものように家に来てくれたが、ショートステイ先も停電で、寒く、食事も普通のおにぎりを用意するのが精一杯とのこと。

 父親にとって普通のおにぎりを食べるのは、誤嚥の危険性が高い。

 俺は、停電している間は、石油ストーブと介護レトルト食のある家の方がショートステイ先より父親には良いと考え、また、昼頃には電気が復旧すると思われたので、昼食を断って、午後になって停電が終わってから俺が福祉車両の自家用車でショートステイ先に送る旨を、送迎スタッフさんに伝えた。

 父親にとって良いとしても、俺と母親にとっては非常に厳しい。

 朝食直後は、満腹感からか父親は少しおちついていたが、その後は歩き回る、うなる、介護に抵抗する…

 そんな中、同じ市内に住む俺の弟が、家に来た。
 ここまで自家用車で来る途中、停電で信号機が消えているので、運転が怖かったそうだ。

 俺と母親は交替で父親を介護しながら、弟とおたがいの家の状況を伝えあい、一通りその話が終わると弟が俺に、「乾電池で使えるラジオを貸してほしい」と言った。

 家にはそういうラジオが2台あったので、そのうちの1台を弟に渡した時、俺は、今までどうやって情報を得ていたのか、ひょっとして得られなかったのかを聞いた。

 停電で固定電話やパソコン(のインターネット)が使えない、テレビが見られない、携帯電話が圏外、といった状況は弟も俺と同じはずで、それでラジオがなかったならば…

 弟は、夜間も含めて時々、アパートの前の駐車場の車に奥さんと子供と3人で行って、少しの間、車のエアコンで暖をとりながら車のラジオを聴いて、最低限の情報は得ていたそうだ。

 弟は、「ここに来る途中、停電でも開いているコンビニや電気店があって、できればそこで、乾電池で使えるラジオや乾電池で充電できる携帯電話の充電器などを買おうと思ったが、売り切れだった」という話もした後、自分の家に帰って行った。

 次の記事に続きます…

平成23年-春
2011/10/26.Wed

平成23年-春-(5)

 …前(下)の記事~ 平成23年-春-(4) ~の続きです。

 停電の中、父親の介護に追われ、朝からの疲れもあってボロボロの状態ながらも、俺は、できるだけラジオを聞くようにした。
 ラジオ用の乾電池はストックがあったから、聞き続けることもできた。

 最初の情報は混乱していたが、徐々に地震・津波の被害、特に東北・北関東の太平洋沿岸地域の深刻な状況が伝えられるようになった。
 時々、我が家が揺れ、その少し後に、余震や関連していると思われる地震の情報が伝えられた。

 我が家にとってラジオから一番聞きたいのは、この停電がいつ終わるかという情報だが、「復旧の見通しは立っていない」と繰り返されるだけ…


 夜、寝かせる時にも父親は混乱し、大きなうなりと険しい顔で怒りを表した。

 着替えやオムツ交換は、居間の石油ストーブの近くでやったが、それでも昨夜までに比べたら寒いし、また、昨夜までは、電気毛布や布団乾燥機で介護ベッドの布団を少し温めてから父親を寝かせていたが、停電中の今夜はそれができず、布団を肌寒く感じたからだろう。

 そんな父親を、なんとか居間の介護ベッドに寝かせたが、停電で介護ベッドを、いつものように安全な高さまで下げる、足のむくみ対策で足部分を少し高くするという操作ができず、福祉用具会社とも連絡がとれないので、ベッドは朝に父親を起した時の、座る高さで平らな状態のままだ。

 足のむくみ対策は、以前やっていたようにクッションをふくらはぎの下に置いて対応したが、全体が高い状態で父親がベッドから落ちる心配については、夜通しでこまめに父親の様子を見るしかない。


 母親も居間の布団で寝た後、俺は、自分の部屋に戻っても寒いだけで、石油ストーブは安全と節約のために消したが、その余熱が残っていた居間のほうがまだ暖かかった(ように俺には思えた)こともあって、居間のとなりのDKにいた。

 そこで、父親と母親を起さないように最小音量でラジオを聴いて情報収集する→父親の様子を見る→毛布にくるまりながら椅子に座って仮眠をとる、を繰り返した。

 その繰り返しの中で、俺は数回、窓の外を見た。
 停電しているから当然なのだが、建物や道路の照明は全く点いておらず、地上はほとんど真っ暗だ。

 しかし、完全に真っ暗ではない。
 近所の家やアパートの駐車場で、車の中の照明が点くことが、何度かあった。

 もともと電気を使う暖房しかない家で、停電でそれが全く使えなくなり、家の中の寒さに耐え切れず、少しでも暖をとろうと駐車場の自家用車の中で車のエアコン(暖房)をつけている、というところがあるようだ。

 車のドア開閉の際に自動的に車内の照明がついたり、エアコン操作など灯りが必要な時だけ車内の照明をつけたりしているのだろう。

 車のエンジンをかけてエアコンを使っているからだろう、そのエンジン音が時々聞こえた。
 他に外から聞こえるのは、たまに家の前あるいは近くの道路を通る車の音くらいだ。

 ラジオを聞いていた時、「人口の灯りがほとんどないから、星空がきれいだ」という話があったが、俺に、空を見上げる余裕はなかった。

平成23年-春
2011/10/25.Tue

平成23年-春-(4)

 …前(下)の記事~ 平成23年-春-(3) ~の続きです。

 停電になった後、身の回りのことが最低限一段落すると、俺は弟や親戚、明日から父親のショートステイが予定されているのでショートステイ先などと連絡をとろうとしたが…

 停電になっているので、電気が必要な固定電話が使えない。

 携帯の電話は全然つながらない。
 多くの人が一斉に電話をかけている、かけようとしているからだろう。

 この状態と停電は当分続くと思われたし、いつ充電できるようになるかもわからないから、いつかつながるだろうと信じて何度も繰り返し携帯の電話をかけるようなことは、できない。
 俺は、携帯の電話をあきらめた。

 携帯のメールは使えそうだが…

 俺と母親が今すぐ連絡を取りたいのは、俺の弟、父親のショートステイ・デイサービス先、祖母が入所している特養(特別養護老人ホーム)、親戚といったところだが、このうち、普段から携帯のメールで連絡を取り合っている(携帯のメールアドレスを知っている)のは弟だけだった。

 弟とは携帯のメールで連絡し合うことができて、おたがいの一家の無事がわかったものの、停電で非常に困っていることもわかった。
 しかし、他とは連絡がとれなかった。

 他の連絡を取りたい人・施設については、携帯電話で災害伝言ダイヤルや携帯電話の災害伝言板を使うことを考えたが、どこにいるか(深刻な被害が出ている地域にいないこと)も、命の危険はないであろうことも推測できるから、それよりも詳しい状況を知りたい、その他のことを聞きたい・知りたい、おたがいに伝え合いたい、話したいという俺と母親の現状には、合わないサービスだ。

 携帯は、この数時間後に「圏外」になってしまう。
 後でわかったことだが、停電が長時間続き、携帯電話の基地局の非常用電源がもたなくなって、基地局が機能を停止したからだ。


 大地震の後の父親は、わりと暖かかった夕方頃までは、なんとか前日までのように過ごしてくれたが、その後になると、灯りは2~3個の懐中電灯だけ、暖房器具が石油ストーブ1台だけでは、昨日までと比べてあまりにも暗く、寒い。

 最重度の若年性アルツハイマーの父親は、なぜこんなに暗くて寒いのか理解できるはずも、その暗さと寒さに順応できるはずもなく、何度も混乱し、そして怒るようになった。

 父親の好きな(かつて好きだった)演歌・歌謡曲を聴いてもらえば、多少なりともおちつくことはわかっている。

 とはいえ、停電になってしまっては、録画しておいた音楽番組を見てもらうことはできず、(乾電池で使える)ミニカセットレコーダーでカセットテープに録音してあるものを聞いてもらうしかないのだが、それをずっと続けるわけにもいかず、限界がある。


 俺も母親も、災害や停電がない状況だった時でさえ父親の介護でギリギリだった。

 今日は精神病院の通院があって疲れてしまい、そんな時に大地震と停電が起きてその対応に追われ、父親の介護もずっと大変になり、もうボロボロで、いつ倒れてもおかしくない状況だ。

 次の記事に続きます…

平成23年-春
2011/10/24.Mon

平成23年-春-(3)

 …前(下)の記事~ 平成23年-春-(2) ~の続きです。

 揺れがおさまると、俺と母親は、どちらかが父親の傍にいるようにしながらも、身の回りのことに取り掛かった。

 俺はすぐに、乾電池を使う小型ラジオをつけた。
 大きな地震があった直後だから仕方ないのだろうが、はっきりしない情報が多く、混乱もあった。

 それでも、我が家のある地域は、大きな被害は出ていないようであること、水道とガスは使えること、その一方で、停電は広い範囲の大規模なもので長く続きそうなこと、などがわかってきた。

 母親は、強い揺れの最中はパニックを起こしかけ、揺れがおさまってもしばらくは動悸がひどかったようだが、ある程度おちつくと、家のガスと水道が実際に使えることを確認した。

 俺は、新潟県中越沖地震が起きた直後に買っておいた防災セットを居間に持ってきて、これから使いそうな物を取り出した。
 他にも、家にある全部の懐中電灯や防寒具の多くを居間に集めた。

 俺は母親に言われて、電気を使わない石油ストーブを物置から居間へ運んだ。
 少なくともここ数年は使っていない、古いものだ。

 大地震が起きるまで使っていた暖房器具は、すべて電気を使うものだったので、停電になってからは全部使えなくなっていた。

 俺は、家の中と外を一通り回って、できる範囲で見たところ、背の高い置物が倒れたり、棚の中が少しゴチャゴチャになったりということはあったものの、はっきりと何かが壊れるといった被害はなかった。
 大きな家具と天井の間には転倒防止用の突っ張り棒をしていたので、それが良かったようだ。

 この間、俺が家の中から外を見た時、近所の人が数人、家の外に出てきたが、すぐ家の中に戻った。
 我が家と同じで、今は自分の家の中のことだけで精一杯なのだろう。


 父親が食べるものについては、湯煎でも調理できる介護食レトルトを割引セールの時に多めに買っておいたし、ガスと水道が使えるから、なんとかなりそうだ。

 俺と母親の食事についても、安売りの時に多めに買っておいたカップラーメンや栄養スナックのようなものがそれぞれ数個あるが、今後のことと、停電でその機能を失った冷蔵庫のことを考えると、まず、冷蔵庫内に残っている食材を先に食べたほうがよい。

 母親は、冷蔵庫内の食材を電気が使えない状況でどう調理するか悩みながらも、ガスレンジや石油ストーブを使い、明るいうちに下ごしらえをして、夕食直前にしなければならないことは、停電で暗くなっていたが懐中電灯の灯りの中で、なんとかやっていた。

 次の記事に続きます…

平成23年-春
2011/10/22.Sat

平成23年-春-(2)

 …前(下)の記事~ 平成23年-春-(1) ~の続きです。

 精神病院から帰宅してからも、父親はおちつきがなく、介護抵抗も強くて、暴れることもあった。


 父親は昼食後のトイレで、座って排便した。

 父親は、あいかわらず下剤に頼らないと排便できないのだが、最近は、下剤を飲んでから排便するまでの時間の長さが、わりと安定していた。
 そのペースからすると、このタイミングでの排便は、ありえないはずなのだ。

 俺は、このことといい、父親の最近の不穏のひどさといい、「何か変だな」と思った。


 14:45頃、俺が自分の用事を済ませて居間に戻ると、父親は椅子に座り、コタツテーブルに足を入れ、俺が先日録画し、さっき居間を離れる前に再生を始めておいた、父親の好きな(かつて好きだった)演歌・歌謡曲が多く含まれる音楽番組を見ていた。

 母親は父親の隣で、椅子に座り、一緒にその番組を観ながら父親を見守っていた。

 それを見た俺が、ようやく父親が少しおちついた、と安心した時…

 急に足元が大きく動いた!!
 これまで経験したことのない大きな揺れがきて、母親は肘掛のない椅子から横にずり落ち、畳の上でへたりこむような姿勢になったが、それでもコタツテーブルにしがみついた。

 父親は、肘掛のある椅子に座ったまま大きく身体を揺らしているのだが、なぜか笑顔だ。

 俺はコタツテーブルにつかまりながらなんとか立ち続けたが、揺れが強すぎてその場を動くことができず、父親と母親を見守るだけで精一杯だった。

 テレビ画面が急に真っ暗になった。
 停電になったせいだと俺が理解できたのは、長い揺れがようやくおさまってからだった。

 次の記事に続きます…

平成23年-春
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